東北旅の記録

毎年東北に行こうと思っているので、その変遷を書き連ねたいと思います。

【2022東北ツアー】7月29日・30日・31日(宮城県・福島県)

2年ぶりに東北を旅してきました。

 

今回は山形や福島の内陸の方も回ったのですが、一応このブログの趣旨的に、沿岸部の町々の訪問記録だけいくつか。

最近文章を書くことが多くなったせいで、過去のブログより圧倒的に文字量が増えてしまいました。

長いですがよろしければお付き合いをば。

 

 

 

2022年7月29日(金)

 

宮城県南三陸町

前の日は山形県天童に泊まっていたので、内陸から車で南三陸へ。

何週間か前の大雨で崩落したとのニュースを見た道路も仮ですが復旧しているようでした(早い…)。

三陸に立ち寄った理由はもちろん、【南三陸さんさん商店街】でうに丼を食べること。
一年に一回、夏のお楽しみです。

2年前は税込3000円くらいが標準価格だったのに、3500円くらいになってました…。
でも美味しいからオッケー。贅だなぁ。

 

弁慶鮨の店主の方とちょっとだけお話したりもしました。

この間の雨は結構大変だった、昔から氾濫しやすい場所だったらしいとか。昔のお店は10mの盛り土の下にあったそうで。その頃は地域のつながりもかなり強固にあったが、3箇所に分かれた高台への移転で昔のご近所などは関係なく住む場所がバラバラになってしまい、繋がりが希薄になってしまった。そこにさらにこのご時世で追い討ちがかけられていると。ちょっとお邪魔して一服、みたいなことがなかなか起こらない。前に宮古で、家が残った人と家が流されてしまった人の間でギスギスして地域の関係が崩れてしまった、みたいな話を聴いたのも思い出したりしました。

中橋

2年前に来た時は通れなかった、商店街と復興祈念公園を川を挟んで結ぶ【中橋】も開通していました。設計はさんさん商店街と同じく隈研吾隈研吾ばっかりだ。今まで知らなかったけど、登米能舞台隈研吾らしい。

ちなみに、【南三陸311メモリアル】という南三陸町の震災伝承施設(こちらも隈研吾設計)も完成していたけれど、こちらのオープンは今年の秋だそうです。

三陸311メモリアル

中橋の向こうにある復興祈念公園も、2年前には未完成だった部分も含めて全面開園していました。防災対策庁舎がとても近くから見られるようになっている。今までほとんど赤い鉄骨しか視認できていなかったので、震災前とかの写真を見てもいまいち元の姿がイメージできていなかったのですが、いざ玄関側から見られるようになると、確かに前は役所の建物だったのだなぁとやっと思うように。想像とはいかなることか。



国道45号線(南三陸気仙沼

三陸を離れて、気仙沼のほうへ向かうことに。

これという用事・目的地があったわけではなく、NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』を見てからなんとなくまた気仙沼に行きたいなぁと思っていたというだけ。

前は三陸道経由で行ってしまい、その道中があまり面白くなかったので、今回は国道45号線を北上。途中、気になったところでちょっとだけ寄り道したりしていました。

 

運転しながら「ここはいい港じゃないか!」と思ってつい寄ってしまったある港。S字のように折れまがった防波堤、防波堤の途中には小さな岩礁が食い込んでおり、先端には赤い灯台ウミネコはたくさん。

堤防の外側と内側で波の様子も水の色も違うのがいい。海側の青、山側の緑、明るいグレーのコンクリート、暗いグレーの岩々。

はぁいい港だ、と写真を撮っていると、

『やっぱ海は涼しいな』

釣りに来た地元のおっちゃんが話しかけてくれました。

「気持ちいいですね、ここはなんていう港ですか?」
『ここはね、蔵内(くらない)。で、あっちに見える防波堤のところが、今朝磯(けさいそ)』

どちらも脳内では漢字に変換できず、後々調べました。
しかも、東北の訛りっていざ書き起こそうと思うと全然思い出せない。

『どっから来たの』
「大阪です、ドライブで」
『ひとりで?』
「はい」
『ドライブ?ひとりで?』
「はい…」
『誰もつれてくる人おらんの』
「はい……」

おっちゃんは首を傾げながら釣りをしにいってしまいました。
でも、こうして海が生活のそばにあるんだな、と改めて感じます。

 

さらに車を走らせていると、前にはなかった気がする建物が。

【道の駅 大谷海岸】です。

JR気仙沼線大谷海岸駅(「駅」といってもやはりBRTなわけですが…)も併設で、2021年3月にリニューアルオープンしたそう。

中に入ってみると、レストランであったり、いけすまである売店だったり、プロジェクションマッピングの水族館まで。あれ、なんか見たことあるぞ、と記憶をたどったら、多分NHKの『あさイチ』だか、なんかの情報番組で中継してたのをたまたま見たんでした。

目の前の海は海水浴場で、金曜日だけどそれなりの賑わい。夏休みですね。

ついお土産に日本酒を買ってしまいました。

 

宮城県気仙沼市

そしてさらに車を走らせて気仙沼市内へ。特に目的地があるわけでもないので、ふらふらと内湾のあたりを車で巡ります。気仙沼港の護岸もだいぶ綺麗に整備され直しているようだし、来るたびにずっと続いていた道路の工事もほとんど終わったようです。

海を眺めながらドライブしていたら、気仙沼大島大橋が目に入り、「そうだ!わたろう!」と思いつき、大島の方向までドライブ。2019年3月に開通したそう。車で橋を渡って反対側から海を、気仙沼を眺めました。東側には、おそらく牡蠣でしょう、養殖のいかだがたくさん浮かんでいます。そして西側は気仙沼湾を挟んで気仙沼の内湾・中心部が。遠目から見るとこんな感じだったのか。遠目に見える別の橋は気仙沼湾横断橋で、こちらは2021年3月開通。こちらは三陸道の橋ということで、大島からの帰りに渡りました。

気仙沼大島大橋から東側

気仙沼大島大橋から西側(奥に気仙沼湾横断橋)

 

ということで仙台の方に戻って一泊。

 

 

2022年7月30日(土)

 

宮城県仙台市

初めて一人で東北に来た時から毎回寄っているので、4度目の荒浜。

【震災遺構 仙台市立荒浜小学校】と、【震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎】と、その周辺。

 

過去の荒浜→

jokuiyne.hatenablog.com

jokuiyne.hatenablog.com

jokuiyne.hatenablog.com

 

震災遺構 仙台市立荒浜小学校

震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎




こちらも前に来た時より整備が進んでいて、公園化され、丘が出来上がり、駐車場や公衆トイレが設けられていました。

荒浜小とその近くにある住宅基礎の遺構を見ながら、過去に何度か見た場所だけれど、過去の自分と感じていることが違うな、ということに気づきました。初めて見た時は本当に、津波の威力・恐ろしさみたいなものをひしひしと感じたり、震災の時はどのようだっただろうと想像したりしたと記憶しているのですが、今回は「この小学校、普通に通っていた子達がいるんだよな」とか、住宅基礎群にも「ここに住んで生活していた人がいるんだよな」とか、その土地にあったはずの生活のことを想像するようになっていました。自分の意識関心が、災害とか、災害その時とかから、災害のその前・その後の人にどんどん移り変わっているのだということを実感を持って捉えました。同じ場所でも、来る時の自分によって捉え方が違う。同じ場所に繰り返し訪れることで自分の変化を感じるということはもっと自分の身近なところでもあることだし、とても面白いなぁと思います。何か「変わらないもの」があって初めて、自分が変わっていることがわかるのかもしれない。

そして海の方に足を向けると、深沼海水浴場には(遊泳禁止と書いてありましたが)ちらほら訪れる家族連れが。まだ黒ずんでいないコンクリートの堤防を上って、超えて、海を見て、子どもたちと親御さんが「すごいねー」と笑い合っています。そこには確かに、今の生活もあるようでした。

 

深沼海水浴場

今の、荒浜

荒浜からさらに車で海沿いを南下。

車で通るのは仙台市の海沿いにあるかさ上げ道路【東部復興道路】です。道路自体が6mの盛り土の上に通っていて、「多重防御」の一環として堤防のような役割を果たします。大津波が来た際には内陸部に津波が到達するまでの時間を稼いでくれたり、被害を軽減してくれたりする、というもの。

通過したのは12時前ごろでしたが、結構な渋滞。ふと「いま津波が来たら、我々はどこにどうやって逃げれば良いのだ?」と考えました。車を置いて走って逃げるのか。水平避難するには仙台は平野すぎる。じゃあ近いところで垂直避難、海側の「避難の丘」に逃げても仕方がないし、かといって内陸側にそれほど津波避難ビルが近くにあっただろうか…?

……という思考・判断をとっさにしなければならないとなると、それはなかなか困難だなとも思ったりします。「とにかく高台に!」というわけにもいかないな。

 

 

宮城県山元町

山元町震災遺構 中浜小学校

宮城県の海沿いを南下し福島県との県境の手前、山元町には【山元町震災遺構 中浜小学校】があります。一般公開されたのは2020年9月で、2年前に通りがかったときはギリギリ公開前、まだ立ち入れませんでした。

入館料は大人400円で、さらに200円で40pもあるガイドブックを購入することもできます。さらには、小中学生向けの「ワークブック」も1部100円で購入可。現地での体験を補完する「学び」の設計が丁寧になされていることが感じられます。

山元町震災遺構 中浜小学校

この施設はどうやら「グッドデザイン賞」を受賞しているらしく(グッドデザイン賞ってどこにでもいるよな)、でもなるほど確かに、見学してみると、ここの展示はよくできているなと思いました。

まず1階で、津波の被害を受けた校舎の様子を見学します。ここの遺構内部は、かなり片付いている荒浜小とかと違って、津波で流されてきたものだったり元々室内に置かれていた(そして津波の力で変形した)構造物なんかが極力そのまま保存されているタイプの遺構展示。おおよそ遺構を見学したら2階に上がり、震災当時にこの学校で何が起こったのかを当時の教員らのインタビューなどで解説する映像を視聴します。その映像で、当時水平避難(近くの高台にある別の学校への避難)ではなく垂直避難(学校の屋上への避難)を選択した経緯や、屋上の物置小屋で大人が児童たちや近隣住民らと共に過ごした一晩のことを本人らの言葉で知ります。そして映像を見た来訪者は、今しがた映像の中で語られた屋上へ案内されます。昼間でも薄暗い物置小屋の中は、震災の翌日に児童・教員・住民らがそこからヘリコプターで別の学校に避難した時点の状況が可能な限りそのまま残されているそうです。暖を取るために用いたであろう学芸会の衣装やダンボールなどが広げられたままになっています。一方、防災用毛布などは見当たらない。

この遺構の中では、展示パネルでも、ガイドブックでも、係の方の話でも、至る所で「想像」をしっかり問いかけられます。「ここの手すりが曲がっているのはなんでだろう?」「毛布が屋上に残っていないのはどうしてだろう?」「この時どういう気持ちだっただろう?」と。

こういう書き方をするととても安っぽくて嫌なのですが、僕は正直、映像〜屋上見学の間ずっと泣きそうでした。というか泣いてました。当時、大人たちが子供たちのことを考えながら選択した行動の一つ一つに含まれている覚悟、この暗い屋上の倉庫で過ごした寒い夜…。その全てなど到底想像し切ることはできないのですが、しかしできる範囲で想像して、少し泣いてしまいました。

良くも悪くも、この遺構には発災から避難までの物語がちゃんとあって、その物語を自分事として体感できるように設計されている。これは確かにその場に行ってこそ得られる感覚だと思うので、ぜひ一度訪れてみてほしいです。私は、いい伝承施設だと思います(「いい」とは何か、ということは常に考え続けなければならないが)。

屋上から降りると、一人の案内係の方に話しかけてもらいました。話が弾んで、僕が取り組んだ震災学習の研究のことから始まり、来年から自分が就く仕事のこと、初任地の希望を仙台で出そうと思っていることなどを話しました。係の方は力強く「仙台に勤めることになったら必ずまた来てくださいね、今度は仕事で」と言ってくれました。そうなる未来が訪れるかはわからないけれど、一つだけ言えることは、仮に仙台勤務にならなくてもまた来るだろうな、と。

唯一気になったのは、震災遺構の写真を使った絵葉書が販売されていたこと。僕は入館料を取ることにもガイドブックやワークブックを有料で販売することにも賛成ですが(積極的に有料にして維持費用などに充ててほしい)、遺構の写真を使ったグッズを販売することにはあまり肯定的な気持ちにはなれません。それは、震災遺構というのはある人にとってはとても辛い場所かもしれないわけで、そして「伝承」を目的に保存・整備し、公開されているものであるから、その「光景」だけが一人歩きしてはならない、必ずそこで起こった出来事という文脈の中で受け止められるべきであると思っているからです。ただの観光地になってはいけない、それは奇跡の一本松であるとか、あるいは原爆ドームなんかもそうだと思いますし。一時期、福島第一原発内のコンビニで記念グッズとしてクリアファイルが販売されていたことがニュースになりましたが(というか叩かれていましたが)(https://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/handouts/2018/images2/handouts_180731_02-j.pdf)(https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_39880/)、僕個人の考え方は否定的なほうに近いです。皆さんはどう思われますか。

 

 

福島県浪江町

県境を超えてさらに海沿いを南下し、福島県浪江町へ。



【道の駅なみえ】でなみえ焼きそばを食べます。この油ギトギト感は、もう近いうちに「食べられませーん」となる予感がするので、今のうちに食べておく。まだ美味しくいただけた(でも大盛りにしなくてもよかった)。ただ、麺とソースと油と肉ともやしだけなので栄養バランスも悪い気がする。まだ若いから、ということにして目を瞑りました。

 

震災遺構 浪江町立請戸小学校

車を海の方向に走らせ、【震災遺構 浪江町立請戸小学校】を見学します。福島県内で唯一、整備されて震災遺構として公開されている遺構らしく、2021年の10月から一般公開されています。

震災遺構 浪江町立請戸小学校

ここはNHKの特集ドラマ『LIVE! LOVE! SING! 生きて愛して歌うこと』のロケ地なこともあり、個人的には見覚えのある場所ではありました。全体的に円弧・曲線が多く用いられている不思議なデザインの建物です。

ここの展示もちょっと独特で、順路通りに遺構の一階・津波で浸水したところを回って見学しながら、あの日の請戸小学校の時系列をイラストと共に追いかけていきます。そしてやはり他に見てきた学校の震災遺構と違うところは、原発事故の影響を多分にうけているということ。請戸小学校は福島第一原発から約5.7kmの距離に立地しています。事故からしばらくの間は立ち入ることすらできなかったこと、あの日一緒に避難した子どもたち同士はすぐに町外避難でバラバラになってしまったこと。福島だけはやはり毛色が違うな、というのは来るたびに思うこと。そしてパンフレットにある「全員が無事避難することができた請戸小学校の奇跡」の文字。「奇跡」か。「奇跡」でしかないのか。荒浜小も中浜小も、当時学校にいた人は全員無事に避難できた学校です。でも、そうではない学校もある。大川小学校のような学校もある。そういうことを忘れてはいけない(そのことも頭に入れながら見なければいけない)と思います。

請戸小のまわりには、ほとんど何も残っていません。でもよくよく考えると、小学校がその場所にあったということは、その周りにそれなりに人が住んでいた、ということなはずなのです。家々が軒並み流されて、解体されて、小学校の校舎だけがその場所に残されている。これは先の荒浜小学校も、中浜小学校も同じ。でも今は、周りには誰も住んでいない。というより、住めない土地になってしまったのです。

唯一、請戸小の外階段には、ツバメが住んでいました。ツバメたちの鳴き声が響き、何匹も何匹も、校舎の周りを飛び回っていました。

この階段棟の一番下にツバメが住んでいる

 

請戸小から少し行ったところには、もちろん海が。請戸港にはたくさんの船が並んでいて、その横には浜もあります。おそらく遊泳禁止だけどとても気持ちの良い浜なので、堤防の上に一人腰掛けてぼーっと海を眺めていました。この海とともに、生活してきたんだろうな、と想像しながら、ぼーっと。数百メートル向こうに、若い女の子二人組が同じようにぼーっとしている。この辺の子なんだろうか。ぼーっと。

 

浪江から南相馬まで戻り、一泊。

 

 

 

2022年7月31日(日)

 

福島県双葉町

朝一番、再び南相馬から国道6号線を南下し、双葉町へ。

双葉町のあちこちにはFUTABA Art Districtというプロジェクトで「フォトジェニック」なアートが。

この双葉の中心部は現状まだ帰還困難区域ですが、来月2022年8月30日で避難指示が解除される区域があるそうです。でも、正直街には人がまばら。駅前も人が歩いているわけではなく。

 

東日本大震災原子力災害伝承館

国道6号から海の方へと入り、【東日本大震災原子力災害伝承館】へ。こちらは、2020年9月に開館した伝承施設で、福島県が事業主体・整備費は国費から出されているそうです。ちなみに入館料は大人600円。オープン直後から展示内容に対する批判が結構上がって、早い段階で展示替えが行われたそうです(https://mainichi.jp/articles/20210307/k00/00m/040/146000c)。

例えば宮城県気仙沼市の旧向洋高校震災遺構に併設されている伝承館【気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館】や、陸前高田にある岩手県の伝承施設【東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMIメモリアル】は、やはり地震津波災害のことを中心に取り上げられており、しかも津波遺構と併設する形で展示が公開されています。一方の【東日本大震災原子力災害伝承館】のほうは文字通り、原子力災害にかかわる事柄が主たる展示内容です。遺構に併設されているというわけでもなく、とはいえ屋上からは浪江の請戸小や、海沿いのいくつかの残された民家跡や、もちろん福島第一原発も見えますし、中間貯蔵施設はすごく近所にある、というくらいの距離感。

伝承館を見学してまず感じたのは、「歴史になっている…」ということ。館内の展示も演出もとても美しく作られていて、津波原子力災害の遺構や資料などはガラスケースの奥に照明を焚かれて展示されている。11年前、あの時起こったことはすごく前のこと-例えるなら、広島の原爆資料館を見た時の感覚に似ているでしょうか-のように思えてしまいました。それは、原子力災害(原発事故)は津波災害よりもかなり人災とされる部分が大きくて、展示でも「責任」なんかについて客観的に検証した内容にせざるを得ないから、というのもあるかもしれません。でも、あまりリアリティはなかったような。「これからの福島」みたいな展示では「福島イノベーション・コースト構想」とかのことばかり書かれていて、もちろんそういう取り組みや、福島県を盛り上げるということも大事なのだが、廃炉の話はそれだけか?依然として帰還困難区域は多く残っているが?そう思うと、前に見た東京電力廃炉資料館の方がよっぽど廃炉の話題を取り上げているし(「廃炉資料館」だから当然なのだけど)、そして道のりの長さに絶望的な気持ちにもなったような気がします。

あと、すごくお金をかけているんだろうな、という風にも感じたし、これは必ずしもプラスに働くわけでもない。「展示」あるいは「体験」として整えられ過ぎているんですね。お金かけているからなのか、館内で流れる映像なんかはテレビのニュースバラエティみたいな過度な装飾テロップや音楽で感情を煽る作りで、正直これはかなり不快でした。テレビの演出ってなんであんなに下品なんだ…と、ああいう場で見ると改めて思います。

正直、この伝承館で一番心に響いたのは、廊下でやっていた報道写真展。一枚の写真と数行の解説文で、心が揺さぶられる。あれはあれで、瞬間を都合よく美しく切り取って、「物語」に仕立て上げる行為だとは思うのですが、でもそこには確かに、人がいる、そんな気がします。

 

 

国道6号線を双葉からさらに南、大隈、富岡の方向へ。福島第一原発に一番近いあたり、帰還困難区域を通過します。

あいも変わらず、沿道の店舗や住居は朽ちてしまい、廃墟のようになっています。

ガソリンスタンド。レギュラー147円?結構安いな!と思ったら、営業してませんでした。いつの数字だろう。あの日かな。

道路沿いに設置されているモニタリングポストの値は約1.2μSv。例えば8月4日時点の新宿モニタリングポストの値は0.0362μSvなので、この国道6号線の値は他よりは高いのは確かですが、当然車で通過するだけで健康被害があるような数字ではなく、例えば1時間滞在しても胸部レントゲン撮影の被曝量の60分の1程度なはずです(この分野に詳しいわけではないので間違えていたらすみません)。とはいえ、やはり少し不安になってしまうのが人間…もとい自分の心理。目に見えないものにどうしても抱いてしまう恐怖。そして、もっと線量の高い環境で働いている方々もたくさんいるという事実。

 

福島県富岡町

とみおかアーカイブミュージアム

行く予定がなかったんですが、原子力災害伝承館で存在を知った【とみおかアーカイブミュージアム】に寄り道。

富岡町の震災伝承施設ではあるのですが、展示としては震災・原発事故が半分、それまでの富岡の歴史が半分という感じで、まさに「アーカイブ」。富岡町の資料収集のさまも含めて展示がなされていて、災害の教訓やその伝承というだけでなく原発事故とその避難によって失われつつある富岡の記憶・記録をなんとか繋ぎ止めよう、という感じでした。

それにしても、大型スクリーンが両壁面にあったり、しっかり照明が焚かれて空間演出がなされていたり、小さな町の伝承館なのにすごくお金がかかっている感じ。

入り口には「電源立地地域対策交付金」の表示が。調べてみると、この施設の整備費はその「電源立地地域対策交付金」によって結構賄われているようで、ざっくり調べると総額17億円が国庫支出の交付金から投じられているらしい。発電所等が設置されている自治体に対して、公共施設の整備費や福祉事業や地域活性化事業の援助をする、という感じ。まあこれはそもそも原発事故前からある交付金で、いわゆる「原発マネー」がこれにあたるのだと思います。ハコモノが増えるやつ。良くも悪くもだなぁ。それにしても、公共事業のお金がどっからどれくらい出て…というのを調べるの、なかなか難しい。スキルが足らない。

 

福島県いわき市

そのまま国道6号を南下し続け、いわき市へ。『サクマ&ピース』を観たせいでいわき市内の地名にどれも聞き覚えがあるのがなんだかおかしくなってしまった。

四倉海岸にある【道の駅 よつくら港】でアジフライ定食を食べて、沿岸部を離れ、会津の方へと向かったのでした。

 

 

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というわけで、2年ぶりの東北旅でした。

昨年は来られず、毎年東北に赴くことはかないませんでしたが、とはいえ繰り返し訪ねることで自分の変化、受け取り方の変化、現地の変化、たくさん感じられるものがあるな、と思います。

また来年、はもしかしたら東北で働いているかもしれません…。